金曜の20時、僕とかおりはいつもの居酒屋でグラスを揺らしていた。
会社の近くにある、小さな灯りの温かい店だ。
香里は大学からの友達で、職場でも相変わらずよく笑う“天使みたいな子”だから、
みんなから密かにエンジェルちゃんと呼ばれている。
「優希って、なんか鼻につくんだよな。」
グラスの酒が少し回って、心の中の濁りがそのまま言葉になった。
「だってさ、あいつ完璧すぎて。人を見下してるとしか思えないっていうか。」
香里は、そんな僕を否定しない。
ただ、ゆっくりうなずきながら言う。
「私はね、優希って、ああ見えていろいろ抱えてると思うんだ。」
「いやいや、それはないよ。あいつは順風満帆で悩みなんてないって。
俺なんてあんなに苦労して作った資料なのに、部長に“やり直し”の一言だぜ?」
「私はあの資料、君らしくて良かったと思うけどな。
部長が怒りすぎなんだよ、あれは。」
香里はいつも僕を肯定してくれる。
僕は頑張っている。一歩一歩成長している。
そう思わせてくれる。
香里は少しだけ微笑み、
「じゃあさ、今度また三人でラーメンでも行こうよ。きっといい話できるよ」
と提案してくれた。
彼と話して何の利点があるのだろうと不服に思ったが、香里の言葉に励まされて来週の火曜に食事に行く約束をした。
僕はずっと、コミュニケーションの“努力をしてきた”と思っていた。
声が大きくて明るい友達を作り、それなりにキラキラした大学生活を謳歌していた。
彼らのそばにいると、自分まで目立てる気がして、あいつら面白くて、優しくて。
今でも会ってくれる友達は——香里だけかもしれないが、
大学で培ったコミュニケーション力で社会人でも大活躍できると思っていた。
でも、現実は違った。
話を聞いてくれない人。威圧的な人。
どうしても話が弾まないし、萎縮してしまう。
それでも僕は“自分は正しい努力をしている”と信じて疑わなかった。
そして、優希のことも。
“完璧で冷たい人間”だと勝手に決めつけていた。
僕はまだ、煮えたつ蒸気の抜け穴を知らない。
約束の火曜日。僕は手早く午前の業務を済ませた。
けれど直前でかおりが部長に呼び出されたらしく、僕と優希だけで行くことになった。
二人で座ったカウンターは冷たく、とんこつラーメンの香りが重く胃にのしかかった。
優希は笑いながら僕に語りかける。
「今日、〇〇商社に営業するんだろ?
あそこの受付嬢、可愛いよなー。」
鼻からおおげさに豚骨の香りを吸ってみせるゆうき。
ラーメンが好きで、可愛い女の子の話題で談笑できる、
そんな普通の男の子に見えた。
「優希の彼女の方が可愛いわ。ふざけんな!」
どうでもいい議論をしながら、あっという間に時間が過ぎた。
ふと横目で見ると、優希は腕時計をちらりと見ていた。
その仕草だけで、僕の胸に嫉妬がじわりと広がる。
「お前はさ、上司からも信用されて、営業も上手くていいよな。
俺にもその能力を分けてもらいたいくらいだ。」
そう口走ってしまった。
優希が何か言いかけた。
けれど僕は、その“間”をまた読み取れなかった。
その週の金曜の夜。
またいつもの居酒屋でかおりと飲んで、
弱音を吐き出して、重い気持ちが少しだけ軽くなった頃だった。
店を出て家に戻り、玄関前でポケットに手をやる。
最悪だった。
どうやら会社のデスクに鍵を置いてきたらしい。
仕方なく折り返して会社へ戻る。
フロアは真っ暗で、清掃の機械音だけが鳴っていた。
ただ、一室だけ明かりがついている。
覗いてみると、そこには優希と部長がいた。
優希は着崩れたシャツの袖をまくり、資料の赤ペンに視線を落としている。
目の下にはうっすらクマができていて、
部長は厳しい表情で何かを確認しているところだった。
僕はそっと自席まで歩き、鍵を取った。
そのとき、優希のデスクに置かれたマグカップが目に入る。
完全に冷めきったコーヒー。
飲む暇もなかったのだろうか。
胸の奥が、じんわりと苦しくなった。
僕は見ていなかった。
疑わなかった。
陰で誰よりも努力している人間を、“冷たい完璧主義者”だと。
帰り道、コンビニの灯りがぼんやりと路面に滲んでいた。
ポケットの中の鍵が、やけに温かく感じた。
嫉妬や猜疑心は、いつの間にか薄くなっていた。
代わりに、知らなかった彼の姿が胸に残っていた。
来週、僕はきっと、優希に話しかけるだろう。
理由なんてなくてもいい。
ただ、少しだけ分かった気がしたから。
この胸の熱い高鳴りは、罪悪感でも反省でもない。
もう少しだけ、世界をちゃんと見ようと思えた、そんな感触。
僕の中で抜けていっていた何かが、初めて集まり一滴ずつ形を成していく。
そして、人はゆっくり澄んでいくのかもしれない。




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